2014年4月26日土曜日

I-3 「ワルシャワの秩序は保たれている」


グランヴィル「ワルシャワの秩序は保たれている」
共和派の反体制勢力が国王ルイ=フィリップの政府を糾弾したのは、主に次の二点である。まず、7月革命によって発足した新政権の約束した民主主義的な施策を骨抜きにしていったばかりか、それに反対する勢力を力で抑えようとした点だ。革命後、民衆の権利要求のデモや反乱が絶えなかったことに業を煮やした国王は、1831年3月「運動派」のラフィットに代えて、「抵抗派」のカジミール・ペリエを首相に据える。政権内部には、革命で端緒についたばかりの自由主義的な政策をさらに推進していこうとする「運動派」と、革命はひとつの王朝の交代にすぎないとして革命の意義を矮小化する「抵抗派」の二派があった。抵抗派の領袖ペリエは、ラフィットとは違って、デモや反乱にたいして断固たる姿勢で望み、それを徹底的に押さえつけようとした。

 また一方、外交も反対勢力の批判の的となった。国内の強硬姿勢とは打って変わって、外交面で政府がことなかれ平和主義をとったことによる。1830年ころのヨーロッパには、ナポレオン戦争後に成立したウィーン体制が維持されていた。ロシア、オーストリア、プロイセン、イギリスの列強はその勢力均衡のうえで平和を保ち、結束して自由主義的運動、国民運動を抑圧した。この体制は1848年の2月革命まで続き、よかれ悪しかれヨーロッパの長期的安定に貢献した。そうしたなかで、1830年にフランスで7月革命が起きた時、各国は大革命のときと同じような混乱を懸念したが、ルイ=フィリップ政府は、国際的な孤立を恐れて、ウィーン体制に恭順する姿勢を示した。

 ところでポーランドでは、7月革命に呼応して11月蜂起が起きる。ロシア帝国からの独立を目指す反乱が起きたのである。この報を聞いたフランスの共和派はポーランド支援を国に訴えたが、政府はその要求に耳を貸そうとはしなかった。各国のナショナリズム運動を支援することはフランス革命以来の伝統だった。王制下で自由を抑圧されている民衆をその軛から解放することこそ、革命の理念に沿った行動だからだ。大革命に続いてナポレオンがいつ果てることのない対外戦争に打って出たのは、美名に隠れた侵略であり領土拡張であったとしても、諸国民の解放という理念からして当然のことだった。ヨーロッパを支配する列強がフランスを恐れていたのはまさにそのことだったのだ。

 大革命以来19世紀をつうじて、フランスに革命が起きるとそれはヨーロッパ各地に飛び火した。7月革命につづいて、30年8月にベルギーで独立を求める蜂起が起こり、ドイツのザクセン・ヘッセン・ハノーヴァーでは革命運動が勃発したし、イタリアでも各地でカルボナリが革命を目指す動きがあった。またフランスの2月革命を受けて、ドイツやオーストリアで3月革命が起き、ウィーン体制を事実上崩壊させたが、イタリアでもポーランドでも体制を覆そうとする革命運動が活発化した。さらに1870年の普仏戦争後、第二帝政崩壊ののちにパリ・コミューンが成立したときには、再びヨーロッパを揺るがす悪夢が再来するのではないかとヨーロッパの列強は強い危機感を持ったのである。

 しかしルイ=フィリップの政府は列強諸国に与して、ポーランドなどの国民運動を助けることはしなかった。共和派は、このようなことなかれ平和主義をとる自国の政府を「どんな犠牲を払っても平和を」望む政府として揶揄しつつ、政府のポーランド介入を強く要求した。また王制を支持するシャトーブリアンも、国の矜持を忘れたかに見える7月王政政府を「祖国の服従の誇りを、敗北の凱歌を、屈辱の栄光をぶるぶると震えながら歌う平身低頭の政府」(Chenot)  と一蹴している。

 そうした背景のなかで、グランヴィルはオーベール社から、一枚ものの諷刺画「ワルシャワの秩序は保たれている」(1831年9月20日)、5日後にその対となる「パリの秩序もまた保たれている」(9月25日)を発表した。Renonciat 91。この諷刺画は、1830年にポーランドで起きた11月蜂起のことを描いている。当時ポーランドは、ウィーン会議の結果生まれた、ロシア皇帝が国王を兼ねる「ポーランド王国」(別名「会議王国」)だった。しかし、1830年フランスで起きた7月革命、ベルギーで起きた独立運動をきっかけとして、ポーランドの情勢も大きく揺れた。同年11月に急進派の秘密結社「愛国協会」が反乱の狼煙をあげると蜂起は意外に大きな広がりを持つ。この急進派に牽引されて、ポーランド国会は1831年1月にニコライ1世の廃位を決議し、事実上ロシアへの宣戦布告を行った。そして10ヵ月近くに及ぶ戦闘の結果、31年9月8日、ワルシャワはロシア軍によって制圧されてしまう。蜂起の失敗によって、1万人に及ぶポーランド人がフランスを中心とした西欧に亡命したという。

 ポーランド軍の敗北の理由として、双方の軍事力の決定的な違い、そして、国内の急進派とチャルトルィスキらの穏健派が対立してしまい、一丸となった抵抗ができなかったこと、国際的にポーランドを救援する国がなかったことがあげられる。ヨーロッパ諸国では、ドイツでもフランスでも国民のあいだではポーランド支援の機運が高まっていた。フランスでは、カジミール・ドラヴィーニュがフランスの国歌「ラ・マルセイエーズ」(マルセイユの女)」を下敷きにした「ワルシャワの女」(1831年)を発表し、民衆たちのあいだで熱狂的に受け入れられる。しかし、ルイ=フィリップの政府はすでに述べたような平和主義のため、また同じ時期、膝元のベルギーで起きた独立問題の対処に忙殺され、ポーランドに支援を送ることはしなかった。

 フランスでは9月16日に外務大臣のセバスティアーニが議会でポーランド情勢について報告をした。そのなかで、ロシア軍がワルシャワを掌握し、ポーランド軍が首都から35キロまで後退した結果、「ワルシャワの平穏は保たれている」と述べた。グランヴィルの「ワルシャワの秩序は保たれている」はこの外務大臣のことばをもじっている。「秩序」とは名ばかりのことで、現実のワルシャワは酸鼻を極める状況だと諷刺画は言っている。版画では、中央にコザック兵が血の海に立って平然とパイプをふかしている。そのまわりには、ポーランド人の無残な死体や斬首された頭がころがり、また後景にはさらし首になったポーランド人やギロチンを準備するロシア兵が描かれている。戦争や国際紛争が起きると必ず事実を隠蔽するかのように「町は比較的平穏な状態にある」ということばがいつでも使われるものだが、ここでグランヴィルが暴いているのはセバスティアーニ外相の言う「平穏」の実態である。
グランヴィル「パリの秩序も保たれている」

ところでこれだけであれば、さほど大きな問題にはならなかった。しかしグランヴィルが5日後に、版画の対となる「パリの秩序も保たれている」
をふたたびオーベール商会から発表し、大きな評判を呼んだ。版画では「ワルシャワの秩序は保たれている」とほとんど同じ構図でパリの様子を描いている。中央に大きく描かれた警官が、デモ隊の男をサーベルで刺殺し、その血を拭っているところである。ポーランドでコザック兵が残虐非道なことをしているのと同じく、パリでも警察が、反対派(ここではおそらくポーランド支援を要求する市民)を殺戮することでかろうじて秩序を保っている、というのだ。しかもここで問題となっているのは単にワルシャワとパリの類似だけではない。対外的な事なかれ平和主義と、国内的な強硬路線が、どちらも自由を抑圧し、流血の惨事を引き起こしている、とルイ=フィリップの政策の根源的なあやまちを糾弾している。


グランヴィル「なんて嫌な虫どもだ!」

 この2枚の諷刺画に怒った当局は、突然グランヴィルの自宅の家宅捜索に押しかける。このときは友人のファランパン(元法学部の学生で、のちの『イリュストラシオン』の取締役)が、六法全書とピストルを振りかざして彼らの侵入をかろうじて阻止したのだった。この蛮行にグランヴィルも黙ってはいなかった。彼はセーヌ県知事に告訴状を提出したあと、10月に不法な家宅捜索を皮肉る諷刺画を描いている。それが「なんて嫌な虫どもだ!」である。絵を描いているグランヴィルの家に、ハエの格好をした警官がつぎつぎにやって来ては仕事の邪魔をする。そのなかには小さくルイ=フィリップの顔をした警官もいて、この捜索が国家の指示だったことを匂わせている。この事件がきっかけとなって、妻のアンリエットが政治諷刺という仕事を嫌がるようになり、その結果、グランヴィルは『カリカチュール』での活動を制限していくようになったとも言われている。

Ⅰ-2「中道派の誕生」

 諷刺画、とくに『カリカチュール』や『シャリヴァリ』の政治諷刺画では、有名な絵画のパロディを使ったものがしばしば見られる。I-2では、その例をいくつか見ていこう。

 まずここで見るのは『カリカチュール』1832年2月2日号にグランヴィルとフォレストが描いた「中道派の誕生 自由の女神の難産のすえに」だ。この諷刺画は、1827年にウジェーヌ・ドヴェリアが描いた「アンリ4世の誕生」のパロディである。

 はじめにドヴェリアが描いた「アンリ4世の誕生」を見てみよう。画面中央左に横たわるナヴァール国女王ジャンヌ3世(ジャンヌ・ダルブレ)が出産を終えて横たわっている。中央にはジャンヌの父エンリケ2世(アンリ・ダルブレ)が、ポーの宮殿でいま生まれたばかりのアンリ・ド・ブルボンを高々と掲げて、誇らしげに集う人々に見せている。アンリ・ド・ブルボンはのちにブルボン家初代のフランス国王になるアンリ4世である。この絵は、19世紀の画家ウジェーヌ・ドヴェリアが22歳のときに描いた絵画で、27年のサロンに出品されて大評判になったものだ。

 1827年は「記憶に残る展覧会」と言われたが、なるほどこの年には、ドラクロワが「サルダナパロスの死」「オリーブの畑のキリスト」など9点を出品したほか、フランソワ・ジェラール、グロス、アングル(「ホメロスの神格化)、コンスタブル、ブーランジェなどが作品を出している。フランスの芸術思潮は長らく停滞期にあったが、27年あたりから新しいエネルギーが蘇りつつあったという。なかでも「アンリ4世の誕生」は、その芸術的な完成度ばかりでなく、復古王政を称える主題からも絶賛され、「サロンの真珠」と言われた。なるほど、このときの国王はブルボン家のシャルル10世だった(皮肉なことに、シャルル10世がブルボン家最後の国王になってしまう)。翌1828年に「アンリ4世の誕生」は6000フランで国王によって買い上げられるし、同年、絵の版画複製権が6500フランで売れたのである。対照的なのは、同じサロンに出されたドラクロワの「サルダナパロスの死」である。この作品は1824年に発表された「シオの虐殺」以上に評判が悪く、大半の批評家から厳しい評価を与えられた。なお、ウジェーヌ・ドヴェリアは1838年からアヴィニョンのノートルダム・デ・ドム大聖堂の絵画の修復を行なうが、身体を壊し、1841年から1865年になくなるまで晩年をポーで過ごした。
ドヴェリア「アンリ4世の誕生」

グランヴィルとフォレスト「中道派の誕生」

 さて、グランヴィルとフォレストはこの有名な絵画をもとに、革命の変質を皮肉る諷刺画を描いている。ここでは原画のジャンヌ・ダルブレが自由の女神に、父のアンリ・ダルブレが国王ルイ=フィリップに、そして生まれたばかりのアンリ4世が「中道派」に変えられている。どうしてそれがわかるのかというと、まず出産を終えた女性は「自由解放」の象徴である赤いフリギア帽をかぶっているからである。彼女は左手に27、28、29と書かれた紙を握っている。これは7月革命が起きた栄光の3日間、7月27日、28日、29日を指している。つまり自由の女神は7月革命後、難産のすえに新生児、すなわち新しい体制を生み出したということだ。しかし、新生児を高々と掲げているのは、革命後に国王の座についたルイ=フィリップである。当時、諷刺画で国王の顔を正面から描くと訴追される恐れがあったので、ルイ=フィリップは後ろを向いている。しかしそのでっぷりとした体型、頬髯、ブルジョワを表すナイトキャップから、この人物が国王であることは誰の眼にも明らかだった。そして彼がそこに集う人々に見せているは、タイトルにもあるように「中道派」と名付けれられた子どもである。中道派とは、右派でも左派でもない「ちょうど真ん中」という意味であり、7月王政政府の穏健でブルジョワ的な体制を指していた。したがって、この諷刺画の意味は、人々は自由を求めて革命を起こしたのだが、難産の末に生まれた政権は、国民が望むような民主主義的な政府ではなく、国王が自画自賛するような保守的なものだった、ということである。

 ところでタイトルにある「難産」とは、産婦の肉体的苦痛を指しているというよりも、むしろ産みたくもない子どもを出産しなくてはならない精神的苦痛を意味している。自由の女神から中道派の子ども(保守的な体制)が出てくる理不尽さが産婦の顔ににじみ出ている。彼女を取り巻く政府の要人からしてみれば、なんとしてもこの分娩を成功させねばならない。女神の傍らに立つ首相のカジミール・ペリエ(➊)は助産婦となって出産に手を貸している。その右にいるギゾー(❷)は、新生児を取り出す鉗子を手にしている。左端に立つロボー元帥(❸)は大きな浣腸器を手にして、いつでも鎮痛薬を与えられるようにしている。ロボーは1831年にデモ隊を消防ポンプで蹴散らしてから、浣腸器(注射器)が彼のアトリビュートになっているのだ。政府のお歴々は、自由の女神からなんとかして無事に「中道派」を出産させようと躍起になっているというわけだ。

 そしてドヴェリアの絵では、手前に犬と戯れる道化が描かれているが、諷刺画のほうでは、背の低いことで有名だったティエールが雄鶏を馬鹿にする仕草をしている。雄鶏はもちろん「ガリアの雄鶏」すなわちフランスの国鳥である。政府がフランスの国をいかに軽視しているかがここに暗示されている。

 またもうひとつ、「アンリ4世の誕生」では、王家に訪れた慶事を祝おうとして、貴族から庶民にいたるまで次々と集まってきている様子がとくに右奥に見られるが、「中道派の誕生」に見られるのはまた別のものである。閣僚たちのほか、そこに詰めかけてきているのは、その帽子と銃剣から明らかなように兵士しかいない。7月王政政府は軍隊の力によって成立していることをここで暗示している。 

Ⅰ-1 「贖罪・洋梨記念碑計画」(2)

 「贖罪・洋梨記念碑計画」を掲載した『カリカチュール』が発行されると、関係者を巻き込む大きな問題に発展する。それは諷刺画のせいというよりも、間の悪い偶然が重なったせいである。発行直前の6月5日、6日にパリで大規模な蜂起が起きてしまったのだ。

 この蜂起は、当時人気のあった革命期・帝政期の将軍ラマルクの葬儀をきっかけとして、共和派がルイ=フィリップの政権を打倒しようとして起こしたものである。この反乱はユゴーの『レ・ミゼラブル』でジャン・ヴァルジャンがマリウスを連れて地下水道に潜るエピソードの背景にもなっている。蜂起の原因は、深刻な経済危機があった。また政治的には革命の精神を引き継ぎ社会改革を進めようとする「運動派」(つまり「革命運動」を進める勢力)のラフィット首相に代わって、1831年3月に「抵抗派」(つまり革命に「抵抗」する勢力)のカジミール・ペリエ内閣ができたことが大きかった。7月革命はたんなる王朝の交代劇にすぎないとして保守的な政策をめざす「抵抗派」のペリエは、革命以来絶えなかった反政府的な示威活動や暴動にたいして断固とした姿勢で望んだ。ペリエ首相自身は32年5月に流行したコレラに罹って死んでしまうのだが、コレラが増大させた社会不安や政治不信に乗じて、共和派は蜂起をしたのである。

 フィリポンは諷刺画「贖罪・洋梨記念碑計画」を『カリカチュール』6月8日号の発行前に、ギャルリー・ヴェロ=ドダにある新聞の発行元オーベール商会のショーウインドーに早々と飾っていたらしい。とすれば、「贖罪・洋梨記念碑計画」は内容が内容だけに、その諷刺画が6月5・6日の蜂起を呼びかけたと解釈される可能性が出てきた。それを懸念したフィリポンは6月8日号の発行停止を考える。ところが、彼はこれまでの度重なる政府批判によって、そのとき懲役刑を受けていて自由の身ではなく、シャイヨーにあるカジミール・ピネルの病院にいた。これは、本来ならサント=ペラジー監獄に収監されるべき当時の政治犯にたいする緩和措置だったようだ。ピネルの病院には、政府批判によって有罪となったアルマン・マラスト、オノレ・ドーミエのほか、『グローブ』紙のポール・フランソワ・デュボワなどもいて、彼らは比較的自由に暮らすことができた。これと似たような例はベリー公夫人の陰謀に加担した容疑で1832年6月20日に逮捕されたシャトーブリアンで、彼は警視総監アンリ・ジスケの特別な配慮によって、総監宅に「勾留」されていた。



ギャルリー・ヴェロ=ドダ入口

ギャルリー・ヴェロ=ドダ内部

 蜂起が起こったことに危険を感じたフィリポンは6月5日夕刻、ピネルの病院から使者に手紙をもたせ、6月8日号の発行停止を指示しようとした。しかし運の悪いことに使者は検問で止められて逮捕され、そのまま21日間勾留されてしまう。翌6日になると政府は、蜂起を力で押さえつけようとしてパリに戒厳令を発し、反政府系の新聞の発刊停止を命じた。発刊中止の指示は新聞社に届かなかったため、『カリカチュール』は政府の命令を無視して発行されたかたちになってしまった。ほとんどの新聞は、当局が行った郵便物発送所での差し押さえで止められた。もっとも、なかには差し押さえが間に合わず、すでに配達されてしまったものもあったようだ。

 翌7日になると、200人の兵士がピネルの病院にやってきて、「囚人」となっている新聞の発行責任者たちを強制連行していった。フィリポンは、からくもその直前に窓から逃げて姿をくらましていた。その後彼は潜伏先から政界の大物シャトーブリアンに手紙を送って、警視総監ジスケに、警察に出頭するのでサント=ペラジー監獄ではなくシャイヨーの病院に戻れるように頼んでもらえないかと依頼している。この手紙のやりとりについては、宮原信「フィリポン、シャトーブリアン、ジスケ」(神奈川工科大学研究報告、平成14年3月)に詳しいので、そちらを参照してもらうこととして、フィリポンの手紙は、ふだん『カリカチュール』に書くようなことば遊びに満ちた辛辣な文章とはちがって、自分の子供と妻にたいする愛情のあふれた率直な文章で書かれている。それにしてもなぜそれほどまでにフィリポンを恐れさせたのだろうか。戒厳令下にあっては、被告は軍事法廷に立たなくてはならなくなるからだ。これまで7月王政になってから、反政府系の新聞は名誉毀損などの名目で何回も起訴されてきたが、裁判では無罪になることも多かった。裁判は通常、陪審員制度によって行われており、陪審員には共和派や正統王朝派の人間も多く、政府の姿勢に反対する者も少なくなかったからである。しかし戒厳令下の軍事法廷でははるかに厳しい判決が下される可能性が高かった。最終的にシャトーブリアンのジスケへの働きかけは功を奏したようで、フィリポンはシャイヨーの病院に戻ることができたのである。

 「贖罪・洋梨記念碑計画」の審理は1833年1月28日に行われる。このときのフィリポンはいつもの辛辣さを取り戻しており、検事側が、諷刺画によって被告は国王殺害の教唆をしたと述べたのにたいして、フィリポンは諷刺画に見られるのは洋梨のジャムづくりの教唆程度のものではないか、と切り返している。結局、『カリカチュール』6月8日号自体は違法であるが、発行停止の指令を出している被告人には法を犯す意志がなかったということで無罪となった。

  最後に「贖罪・洋梨記念碑計画」に似た諷刺画をあげておこう。1833年3月13日の『シャリヴァリ』に発表された洋梨形のオベリスクである。この記念碑のまわりでは政府の要人たちが、思い思いのやりかたで、その建立を祝い喜んでいる。なお、洋梨のヘタのかわりにうずくまった悪魔が描かれている。
 ここでオベリスクが使われたのは、1830年代初期にエジプトのムハンマド・アリがルイ=フィリップにルクソールのオベリスクを贈ることを約束し、1836年にコンコルド広場にそれが建てられたことと関連している。30年代を通じて、オベリスクやその表面に書かれた象形文字はパリ市民の話題となっていたのである。






2014年4月25日金曜日

I-1 「贖罪・洋梨記念碑計画」(1)

 
「贖罪・洋梨記念碑計画」


「贖罪・洋梨記念碑計画」は1832年6月7日号の『カリカチュール』に掲載された。ここには、コンコルド広場の中央に巨大な梨のモニュメントを建てる計画が描かれている。「洋梨」は、シャルル・フィリポンが考えだした国王ルイ=フィリップの象徴で、当時パリの人間で知らない者はいないほど有名だった。洋梨の記念碑をパリの中心に置くことによって、権力を誇示するルイ・フィリップ国王をからかおうというのだろうか。たしかにそれもある。しかしこの諷刺画はもっと大きな問題を暗示していた。

 『カリカチュール』の同じ6月7日号には、シャルル・フィリポンの書いた諷刺画の解説記事が載っているので、まずそれを読んでみよう。この解説文によれば、計画では、巨大な洋梨を飾り気のないブルジョワ的な台座のうえに置き、台座に27+28+29=0という足し算を血の色で刻むのだという。また、なぜ記念碑を「革命広場」のうえに建てるかといえば、「民衆が動く日々[革命のこと]はゼロ以外の結果を生み出してしまうから、台座に刻まれた計算をやり直すような軽々しいことはやめなさい、と人々に注意をうながす」ためである。

 フィリポンお得意の暗示に富んだ書き方だ。まず27+28+29=0という足し算を血の色で刻むとは、7月27日からの3日間に起きた7月革命では多くの血が流されたにもかかわらず、その結果はゼロだったという意味だ。つまり革命によってシャルル10世の政府が打倒されたものの、さまざまな政治勢力の妥協としてルイ=フィリップが国王となり、国民の諸権利などを与える革命精神はないがしろにされ、成果はなにひとつ生まれなかった、ということである。また、「民衆が動く日々…」の文章は、もう一度革命が起きればなんらかの結果が生まれてしまうことになるので、そんな危ないことはしてはいけない、という意味である。もちろん、ゼロではない結果をつくりだす革命をやり直そう、と人々に促しているようにもとれる。

 しかし、この解説文を諷刺画のタイトルと結びつけるとさらに深い意味が生まれてくる。諷刺画のタイトルは、「贖罪・洋梨記念碑計画」projet d’un monument expia-poire となっていて、「贖罪記念碑計画」 projet d’un monument expiatoire の形容詞「贖罪の」expiatoire を、「洋梨」poire にひっかけた造語にかえている。この言葉遊びによって、タイトルには「洋梨(ルイ・フィリップ)」の贖罪記念碑、つまり洋梨を犠牲にして人々の罪を贖う記念碑、という意味が生まれてくる。

 この解説文では、1830年から「コンコルド広場」と呼ばれるようになった場所を、わざわざ大革命のときの呼び名「革命広場」にしている点に注目したい。「革命広場」と「贖罪」から連想されるのは、そこでギロチンにかけられたルイ16世と王妃マリ=アントワネットのことである。実際に「革命の犠牲」となったふたりを祀る贖罪記念碑がコンコルド広場の近くに存在する。

 タイトルと諷刺画を結びつけるとどのような意味が生まれるかを述べる前に、すこし寄り道をしてルイ16世の記念碑を紹介しておこう。パリ右岸、サン=ラザール駅にほど近いところに、ルイ16世とマリ=アントワネットを祀った贖罪礼拝堂がある。ルイ16世小公園のなかにある新古典主義様式の小さな礼拝堂である。ふたりは1793年に革命広場に置かれた断頭台で処刑され、遺体はマドレーヌ墓地(現在の贖罪礼拝堂がある場所)に葬られた。ここにはマラーを暗殺したシャルロット・コルデ、7月王政の国王ルイ=フィリップの父フィリップ平等公、ルイ15世の愛妾デュ・バリー侯爵夫人など、革命期の処刑された人たちが数多く投げ込まれていたが、墓地は1794年に廃止された。ギロチンにかけられた者が増えすぎて埋葬できなくなったことや、付近の住民が異臭の苦情を訴えていたことが原因とされる。




贖罪礼拝堂
       
 1815年、ワーテルローの戦いで破れてセントヘレナ島に送られたナポレオンに代わって、ルイ18世が返り咲き、王政復古を実現した。王はただちに自らの兄であるルイ16世夫妻の遺骸を捜索するよう命じた。ふたりの遺骸は早くも1815年1月に発見され、王家代々の墓所であるサン=ドニ大聖堂に運ばれた。なぜ埋葬場所がわかったかと言えば、旧マドレーヌ墓地の隣に住んでいた王党派の行政官オリヴィエ・デクロゾー(マリヴォー侯爵の料理長もつとめた人物)が知っていたからだ。マドレーヌ墓地の土地は1794年の閉鎖後、何人かの手を経たのちデクロゾーが購入した。彼は墓所であることを明示するために、そこを高い塀で囲み、糸杉を植えていた。さらにパンフレットをつくり、墓参客まで受け入れてもいた。その土地を国王ルイ18世が買い上げて、そこに贖罪礼拝堂がつくったのである。礼拝堂はルイ16世の命日である1815年1月21日に着工し、1826年に完成した。その後、アンシアン・レジームの遺物としてなんどか破壊の危機に晒されたものの、1914年に歴史記念物に指定され、現在に至っている。


マドレーヌ墓地にあったルイ16世の墓所
諷刺画に戻ろう。大革命が起きたので、ルイ16世と王妃マリ=アントワネットが処刑され、「贖罪礼拝堂」ができた。とすれば、ふたたび革命があれば、ルイ=フィリップも同じような運命をたどるかもしれない、ということを暗示していることになる。

 また、諷刺画のタイトル monument expia-poire は、洋梨を犠牲にして革命という罪を贖う記念碑というだけでなく、洋梨(ルイ=フィリップ)の罪を贖う記念碑という意味も含まれるだろう。7月革命を裏切った国王の罪である。さらにもうひとつ、「贖罪」というなら、ルイ16世にたいするオルレアン家の罪も含まれるのではないか。ルイ=フィリップの父であるフィリップ平等公は、1793年1月に行われたルイ16世の処刑を決める国民公会の投票で、「無条件の死刑」に賛成票を投じていた。それ以来、親戚関係にあるブルボン家からオルレアン家は敵視されていたのである。諷刺画には、国王ルイ16世を殺し革命に加担した家系のルイ=フィリップがこんどは一転、革命を裏切るという罪を犯したことを匂わせているのではないか。

 ところで「贖罪・洋梨記念碑計画」の発表は、『カリカチュール』紙の編集長シャルル・フィリポンが想像しなかったような大きな問題に発展するのだが、それについては次回に書きたい。